「語り継ぐ戦争の記憶」奥野勝之さんが語る集団疎開と戦争の終わりに思うこと
【📻配信あり】みのおエフエムでは毎年8月、「語り継ぐ戦争の記憶」と題して、地域のかたに戦争体験を教えていただき、ラジオで放送しています。
1945年の終戦から79年。今年は、稲にお住まいの奥野勝之さん(86歳)に伺いました。
終戦時、奥野さんは7歳でした。開戦の頃は、お父さまの仕事の関係で台湾で暮らしていて、1943年に東京へ戻り、その後、空襲から逃れるため、長野県の浅間温泉に小学1年生で学童疎開しました。
疎開先では、旅館で部屋割りをして、子どもたちと先生が一緒に共同生活をしていました。食糧が少なく自給自足で生活をしている地域に100人単位で疎開してきたことから、とにかく食べるものが不足していたといいます。下級生は、上級生から食べ物を取られたりして、お腹いっぱいに食べたことはほとんどなかったそうです。
風呂に入るためには、往復1時間ほどの道のりを歩きます。その途中の畑で、トマトやキュウリなどの野菜があれば、申し訳ない気持ちを抱きながら、採って食べたそうです。申し訳ないという気持ちは、86歳になった今でも、持ち続けていると、奥野さんは仰っていました。
東京に戻り、家族と暮らしていた奥野さんは、終戦の10日ほど前に、上野や渋谷など、あちらこちらが爆撃で真っ赤になった光景を目撃しました。もうこれで終わりだなという思いとともに、爆撃で命を失っても、病気で人生を送れなくなっても、やはり家族が一緒にいるということが幸せだったのでは、という感覚があったそうです。
お話しの最後に奥野さんは「国を大きくしたい、強くしたいといったことから戦争が始まったのではないか。戦争を起こさないためには、欲を自制する人間にならなければいけない」と話してくださいました。
取材をしたみのおエフエムのリポーターは「戦争の恐ろしさは、無感覚になるということ。人を傷つける、物を盗むなど、平常時には考えられない行動をとってしまいます。奥野さんから、このようなお話が伺えたことが印象的でした」と話していました。
場所:箕面市内